ISBN:978-4480068705 プラグマティズム入門
定義
そのラヴジョイが、一九〇八年に、『ジャーナル・オブ・フィロソフィー』という雑誌に、「一三人のプラグマティスト」という論文を発表した(この雑誌は当時はジェイムズを中心とするプラグマティズムの 城であり、今日でもアメリカの代表的哲学雑誌ともいえる地位を保っている。ラヴジョイのこの論文を収めた論文集は『一三人のプラグマティスト』として、一九六五年に出版された)。
というのも、この思想は一般に、言葉の「定義」というものの意義を高く評価するべきではないと主張する。
反デカルト主義
初期
つまり、「どんな方法でもよいから、信念さええられればよい」ということになりそうである。しかし、必ずしもそうではない、というのがパースの考えである。
信念の確定スタイル
伝統に従う
社会的権威に従う
理性の導くところに従う
科学的探究の共同体の導くところに従う
というのも、信念を改訂することは誰にとっても、きわめてエネルギーを要する作業であり、コストのかかるプロセスだからである。したがって、エネルギーやコストということを最大限に重視すれば、信念を確定するプロセスが迅速で、ほとんど知的努力を必要としないという点では、これらの二つがきわめて有力だということになる。
前者二つ
ただし社会や環境の変化に対応できない
理性の導くところに従う=デカルト的な方法というのは個人の判断にとどまっている
信念は改訂されるとすれば、それがコストを伴う作業である以上、固定後にはできるだけ長期にわたって活用できるもの、つまりできるだけ頑健なものであるべきであろう。そのためには、個人による好みに頼る方法はあまりにも信頼性が低い
科学的知識の共同体の想定する真理概念
「探究の共同体という理念的な組織を考えて、そこでの探究の無際限な継続の果てに、無限の過程の収束点として考えられるような、最終的信念」
今この瞬間にはない
パースはデカルトと同じように、数学者であり論理学者であり科学者であった。それゆえ、彼は科学的探究という限られた範囲で、デカルトに代わるような、新たな方法論を考えようとした。これに対して、ジェイムズもまた、哲学者である前に科学者であったが、その専門分野は生理学、心理学であり宗教学であった。彼はいわば、より人間科学に近い領域を専門としたのである。
真理
行為のための有用ないし有効な手段
必要であれば信念の所有を意志できるし、そうするべきであると説く。
不十分な証拠しかないのに頭から信じるのは、おそらく愚かで、ばかげているであろう。しかし、それは「悪」なのだろうか。ジェイムズはクリフォードの考えにも、賛成するべき点があることは認めた。科学者の厳密な知的探究活動において、十分な根拠や証拠、理由や説明のないままに、何かを鵜みにすることは、たしかに科学の倫理に反しているといえるであろう。しかし──とジェイムズは考える──それは、科学という限られた知的探究に限定された場面での信念のあるべき姿である。
しかし、反対に、この選択が自分にとって「決定的な重要性をもち、切迫性をもち、生きた選択である」とすれば、不十分な証拠であるからといって、選択を放棄し、決断を避けていることは、行為への積極的な姿勢の放棄という意味からいって、まさしく「悪」であろう。つまり、われわれにとっては、どうしても賭けなければならない場合には、証拠の不十分という条件を承知していても、何かを信じようとすることには意味があり、その限りでわれわれは「信じる権利」をもつはずである。
探究は疑問と懐疑から出発し、懐疑のさらなる必要がなくなるまで続けられる。この懐疑がなくなった状態は伝統的には真理の確定や知識の確立と呼ぶ
デューイは保証付された言明可能性と呼ぶ
これに対してデューイは、パースの反デカルト主義をプラグマティズムの中心的テーゼであるとして重視しつつ、それがデカルト以来の近代哲学に特有の基礎づけ主義に特有の問題なのではなく、むしろプラトン以来一貫して認められてきた知識についての傍観者説という、より大きな根本的前提の問題であると考えた。
探究に携わる人間の思考作業が、本質的に記号的な本性をもつこと──。実はこのこともパースがその反デカルト主義によって早くから強調した点であった。しかしながら、デューイはこの点についても、パースの発想に一つのひねりを加える。探究が言語的な性質をもつということは、それが社会的、文化的、慣習的な次元を根本的に含んでいるということである。なぜなら、言語や記号はそれを共有する社会や慣習があって初めて、意味をもち示唆を与える力をもつからである。そうであるとすれば、探究の帰結としての「検証された仮説」とは、まさにその言語の共同体において、とりあえず検証され、確定的なものと見なされたという意味で、「言明可能な信念だ」ということに
自然の真理、すなわち仮説的信念は実験を通じて検証される。社会のルール、人間どうしの結びつきや交渉の規則もまた同じく、実験を通じて提起され、討議され、検証される。デューイは社会の内なる人間の、道徳的・政治的行為の基盤や規則をめぐって展開される、このような知的探究のスタイルのことを、「民主主義(democracy)」と呼んでいる。
古典的なプラグマティスト
真理=探究的で前進的なもの
≠デカルト的な確実な基礎を持ち一切の疑いの入らない知識
真理
パース
科学的探究の最終的な収束点において見出される信念
ジェームス
行為において信頼しうる「有用な道具」
デューイ
伝統的哲学に対する科学的改訂
論理実証主義と古典的プラグマティズム
類似
信念や認識の経験的有意味性を重視して、アプリオリなもの、原理的なものをできるだけ排除
相違
真理を有用性とみる部分=事実と価値の同一視
この点で、論理実証主義はまったく反対の立場を表明している。この立場では、有意味なもの、真偽の問いうるものは、まさしく実証的なもの、事実によって検証できるものだけであるから、真理とは価値的観点などがまったく関与しない、ストレートな知覚的次元の事象に限られる。
ジェイムズにあっては科学と宗教や道徳は等しく真理の候補となりうるが、カルナップらの見方からすれば、宗教や道徳は個人の主観に依存した、いわば感情的なものであり、およそ実証的なものとはいえないのである。
以上のように、二〇世紀後半のアメリカ哲学、あるいはプラグマティズム思想の展開は、クワインによるプラグマティズムの再評価から始まって、ローティによる相対主義的方向への非常に徹底した傾斜があり、その後にパトナムによる揺り戻しがある、という軌跡を描いた。
少し前のプラグマティズム
反パース
哲学は、科学的知識の客観性や確実性を確保することに力を注ぐ必要はない。というよりも、哲学はわれわれの認識がもつべき客観性や確実性というものが、何ら特別な意義をもたないことを、もっと積極的に意識する必要がある。
科学は有用だが
しかし、それが有用であるというのは、あくまでもわれわれにとっての「対話の道具」として有用だ、ということにすぎないはずだ。
彼にとって連帯(solidarity) とは、知的な探究を行う個々人が、探究におけるそれぞれの規範を共有しようと考える共同体へと帰属する、ということである。